虫と共に去りぬ

虫や金魚を中心に、生きものたちと歩む日々

君たちはどう生きるか

 

自分という存在は、途方もない輪廻の中であまりに小さく、世界の仕組みを前にあまりにも無力である。
そのくせ、自力ではどうしようもない出来事に対して、君たちは日々動揺し悲しみ怒っている。世の中に飛び交う悪意に反発し、既に失ったものを諦め悪く追いかけている。”次こそは上手くやろう”と、健気な努力を続けている。

 

この愛おしい命が、君たちである。

 

時に火花のように興奮し夢をみて、またある時は傷を負い誰かを恨み、ひとり風に吹かれているような、そういう生々しさの積み重ねが、君たちの輪郭、その一辺を作っていく。

…少し言い直そう。君たちの輪郭とは、それらを積み重ねていくことでのみ、君自身の前に立ち現れるのである。

 

鳥は、境界を超えていく。
君たちは、境界を見据える者の針のような視線に晒され自分の弱さに震えながらも、時に彼らの視座を借りて、迷路の如く入り組む〈今〉を進んで行かなければならない。自分で進むしか、道はない。

そんなことできるだろうかと、不安に思う。

しかし、真人はあのひと夏を通して、不意に飛び込んできた悪意や自らの内で湧き出る恐怖を、苦闘の末に受け止め、飼い慣らした。

たかがアニメーションの物語。

しかし、アニメーションも鳥のように自由に境界を超えていくもの。それが証拠に、君たちは映画館を後にした今もなお、なんともいえない煮え切らなさを抱えてこうして物思いに耽っている。

 

これはキキの物語、パズーの物語、千尋の物語ではなかった。

真人の物語でありながら、徹底的にあなたのための物語だ。過去作のオマージュの数々は、これまでのジブリ作品に目を輝かせてきたあなたの目を通して初めて煌めきだす。監督の総決算といえば味気ないが、そこにはメッセンジャーとしての監督からの愛が受け取れる。この先を生きる人々への愛が。

 

行きて帰りし物語の本当の終着点は、本を閉じた後に訪れる現実の静寂である。

アオサギは境界を超えて、今度はあなたの胸の暗がりに潜んでいる。

共に歩むか、食い殺されるかは、もう君たち次第だ。