虫と共に去りぬ

虫や金魚を中心に、生きものたちと歩む日々

荼毘

祖母が亡くなった。

2022年3月24日の午前11時頃だったらしい。母が叔父から電話で連絡を受けて、それで私も知った。96歳だった。怪我を元に急に弱ってしまった感はあったけど、最終的な死因は老衰。大往生だったと私は思っている。

それから7日後の3月31日に葬式に出た。子供の頃、春や夏の休みが来るたびに遊んでいた従兄弟たちと十数年ぶりに会う。一人は子供がいて、一人は店長で、一人は自分の店を持って、一人は先日結婚して、一人は本家の跡取りで、それぞれの時間があったことを当たり前ながら実感した。私だけが、現状維持のままなんとなくここまで来てしまったような気もするけど、もしかしたらみんな内心では案外似たようなことを考えていたりするのかなと適当に丸をつけて、それ以上は結局考えるのをやめた。圧倒的に他人の人生すぎて、考えるエネルギーも式の最後には尽きていた。

坊主の長すぎる読経を聞きながらスーツの埃を払ったりして、そういえば祖父の葬式の時もこんな同じだったなと思い出した。祖父が亡くなったのは2005年で、実に17年ぶりの感覚。線香の匂いと居並ぶ親戚の黒い背中と、遺影を囲んでいる仏花。明るくて綺麗なのに全然温度を感じないやつ。しかも大量の。それをぼんやり見てるとなんとなく家系図みたいなものを想像し出して、そうか亡くなったのはここのおばあちゃんで、従兄弟はここで、私はここで、と普段は考えもしない血筋を意識する。自分がそのピースの一つに張り付けられている感覚がしてくる。別にそれが嫌というわけではないけど、独特の奇妙な感じは17年前も感じていた。この日も、やっぱり変な感じだった。「@@さんの孫」だとか「@@さんの娘」とかが、こういう場で私の肩書きとして引っ張られてくるからだと思う。母方の「孫」という肩書きは、残念ながらこの度、祖母と共に消えてしまったけど。

当時中学生だった私は、祖父の死に目に会うことができなかった。病院に着いた時にはすでに祖父は事切れていて、しかし「ほんの数分前だったんだよ」と先に来ていた叔母が泣きながら私たち家族に言っていた。それで「おじいちゃんまだあったかいよ、行ってあげて」と促されて、私はおずおず祖父のベッドに向かった。ただ、おじいちゃん声を掛けることも、その体に触れることもできなかった。これは祖父ではなくもはや遺体で、だから穢れていると強烈に感じたことを今も覚えている。でも、目の前の遺体はもう祖父ではないから、その体に泣いて縋らないことを、きっと祖父も悲しんではいないだろうという論理も同時に頭の中にあった。私はおじいちゃん子だったので、裂けるくらい悲しくてボロボロ泣いていたけど、それとこれとは全く別の処理が精神的にも論理的にもされていたみたいだった。それじゃあ、祖父の存在はこの体に宿っていないのだから、荼毘に伏す時も辛くなかったのかと言われれば、それがそうでもなくて、祖父の棺が火葬炉に消えてしまう前にはぐしゃぐしゃになるまで泣いて棺に縋っていた。そこで従兄弟に「…おじいちゃん、もうそこにいないからさ」と言われて、あのとき病室で直感的に降ってきた感覚を思い出して、(そうだ、そう言えばそうだったんだ)と私はやっとその場を離れることができた。しかし死の理解とそれに対する自分の納得の仕方がごちゃ混ぜになっていた当時を思うと、まだその答えを出せたとは言えないまま迎えてしまった今回、実際に祖母の遺体を前にして自分がどうなってしまうのかは正直未知数で、それが実のところ少し怖かった。

葬式の前、祖母が亡くなって2日後の3月26日に納棺の儀を祖母宅で行った。祖母家族を中心に濃い親戚だけが10人ほど集まった。死化粧は、祖母の死に際に居合わせた叔母たちが行っていたので、その他儀式的な死装束の準備やら家を出る準備やらを納棺の前に諸々行った。頼んであったらしい農協の職員が先導したおかげで滞りなく進んだ。途中、祖母の思い出の品を棺に収める機会が設けられていて、まず私の母は着物を入れた。淡い黄色の祖母の姉が着ていたという着物で、祖父が亡くなってすぐくらいの時期(そのあたりで祖母の姉が亡くなった)に「私が死んだら姉さんの着物を一緒に入れてくれ」と、母が祖母から直接頼まれていたものらしい。不仲だった下二人の姉妹と実家の跡をとった弟にはそのことは告げていなかった。約束を果たしたのが、実の母(私の祖母)の無理解に苦しみ続けた母の最後の孝行だったのかもしれないけれど、他者の私がそういう綺麗な形に納めて良いはずがないなとこの日を思い出す度に思う。情の厚い母が、親の死に涙を落とせなくさせたのは祖母自身だったと、母の「娘」である私は今感じている。「孫」として祖母を慕うのとは全く別の思考で。その後、叔母たちは、祖母の好きだった紫色の着物を入れた。二人で事前に決めていたようだった。

最後に私は手紙を入れた。蓮の花の便箋と封筒。何年も使う機会がなかったのに、今回のことを考えた途端に頭に浮かんで、数分もせず部屋の中から探し出せた蓮の花のレターセット。最初から考えていたわけではなく、たまたまTwitterで亡き祖母に手紙を書いたという呟きを見たからだ。私が中学生、高校生、大学生、社会人になって、子供の頃のように「孫」としての言葉を祖母に渡せていなかったことへの、償いと赤裸々に言えば私の気持ちの整理として、この手紙は書くべきだと直感していた。書こうと決めてから納棺の日まで時間がなく、私は考えた末に「おばあちゃんごめん!」と思いつつ、ペンと便箋ではなくパソコンとキーボードに向き合った。ただただ祖母と話しているように、文章の順序とか構成とかは気にもしないでとにかくたくさん書こうと思った。祖父の葬儀で泣き通した17年前みたいに、今回私は自室で丸1日で泣いていた。涙が乾いたと思ったらまたぼろぼろと目元がふやけてきて、目の腫れが治る暇がないくらい、それ位もうずっと泣いていた。書き上がった手紙は7ページになって、普通に印刷すると折っても蓮の花の封筒に入らないことに気づいた。それでまた「おばあちゃんごめん!」と言って文字サイズを小さくし、二段組にし、両面印刷にしてやっと封筒に収まった。使っていないけど綺麗だったので蓮模様の便箋もなんとか数枚入れた。指で抑えながら最後に液体のりで閉じた封筒は、パンパンにはち切れそうなっていた。祖母に伝える言葉を書き切れたはずがないけれど、それでもこの封筒の重さが、祖母の死への覚悟を決めさせてくれたような気がした。納棺の日、祖母の棺に進み出てその傍に手紙を置いた私に、叔母たちが微かに目線をくれたものの、そこでそれに動じるような感覚には不思議とならなかった。祖母の死を受け入れる決心がついたんだなぁと私はその時に自覚した。