虫と共に去りぬ

虫や金魚を中心に、生きものたちと歩む日々

容量

自分が自暴自棄になっているというのは、実感がある。

自分でもそうだと思う。

 

色々リセットしたくて、どこかに行きたい。

何も考えないで、適当に地図で目に止まった場所に行ってみたい

一週間でも、一ヶ月でも。

 

自分の内面の変化を追えていること、状態を掴めていることが精神の安定だとしたら

自分のことが自分でわからなくなった時が、抑鬱状態や鬱の始まりなのだと思う

恐らく今の私は、最悪の状態からは脱している

脱しているけれど、”落っこちた”あの時から結局今の今まで自分の内面を掴めないまま

以前はできていたのに、掴めなくなったままでいるように思う

それでも前みたいに自分のことを理解しないと、きちんと前に進めない気がして

毎日内側をぐるぐる眺めてる あーでもないこーでもない

 

その連続で、疲れてる

摩耗してる

 

どこかに行きたいけど、それは今この家のことを放棄できると思っているから

仕事を放棄できると「私」が思っているから

誰かに頼っているから

 

家庭に入った人が、家庭を、夫や父、妻や母という立場を、子供を放棄できないのは

苦しいだろうなと思う

私はそうなりたくないと思う

そういう「立場」が、自分に付与されるのは嫌だと感じる

 

その反面、立場や責任や変化を今の私が恐れるのは、

それらを受け止めるだけの精神状態ではないからかもしれないと

頭の隅で考えてもいる

 

抑鬱状態の時に、諸々の決定はひとまず先延ばしにして、とにかく休めと言われた

その状態で何かを決めるのは「本来のあなた」がする決定とは違うかもしれないから

その決定は歪んだものかもしれないから、ひとまず決め事は後にして休みなさいと。

 

でも、”落っこちた”後の私は、もう完全に前の私からは変性していて

そもそも「戻りよう」がないのだ 以前の思考や判断には。

そして、”生き直し”と言えば聞こえの良い人生の再スタートを切ることになった今、

いろんな決断は目の前に迫ってきているのに

それを受け止める私には到底なれていない

多分いま家族が怪我をしたとか 病気になったとか入院したとかという変化が起きたら

私は壊れると思う

仮に、その場をなんとか乗り切れたとしても

その後の私はたぶん、固まりきらないまま引っ張り上げた飴みたいに

一番なりたくなかった不安定そのままの人間になってしまうと思う

 

仕事で、早く車の免許を取れと言われたことがある

免許は持っているけど完全なペーパードライバーだったので私は運転ができなかった

先輩は、取材くらい自分の車で行けるようになれと言うのである

地方勤務で車が必須とかタクシー禁止と言われていたわけではないけれど

一向にマイカー取材しない私に対する彼の責めは理解できた

ただ、自分が”壊れる感覚”と言うのはなんとなく予測がつくもので

私は仕事と、人間関係の負荷で手一杯だった

そこに運転練習の負荷がかかるのは積載オーバーだった

 

いまの私は積載オーバーという感覚だけがあって、

でも何が積載されているのかは自分でもよく分かっていない

もしかすると、落っこちてからは積載容量が以前に比べて少なくなっているのかもしれないけど