虫と共に去りぬ

虫や金魚を中心に、生きものたちと歩む日々

むしょうに(1)

 

 

むしょう‐に〔ムシヤウ‐〕【無性に】

[副]

  1. ある感情が激しく起こるさま。むやみに。やたらに。「無性に腹が立つ」「無性に故郷が恋しい」

  1. あとさきを考えずにやみくもに行うさま。むやみに。やたらに。

  2. (引用:goo辞書)

 

 

 

ちょうど日付が変わる頃に眠気が来たので、ベッドに入って何とか眠れたのが3時間くらい。その後は、出展しようと思っているイベントのことを考え出したら、どうにも頭が冴えてしまったし、寝汗もかいてきたので、もう起きてしまうことにした。

 

ネットサーフィンしつつ、耳が寂しくなってきたので1つ前のスマホに残っていた音楽を聞いていたのだけど、いつダウンロードしたのか覚えていない曲が目についたので聴いてみた。

 

 

Freak    -    Avicii ft.Bonn

 

 

聴いて思い出したけど、多分モールで買い物中に気になってシャザムした勢いで入れた曲だと思う。のっけから体がリズムに乗って揺れてしまった。冷たい部屋で、夜に、一人で聴くための曲みたいな、今の自分にぴったりハマった感じ。

洋楽には全く詳しくないけど、素敵だと思った曲がことごとくAviciiのものだったので、少しだけ彼自身とか、彼のその他の曲に興味を持っていた時期があった。

彼の名前で検索を掛けるくらいの興味だったけど、彼の訃報はなぜか自分が思った以上に鋭く胸に刺さった。遠い国の、世界の人を夢中にさせられる才能を持った、私と年の近かった、青年。彼に対してこんな貧弱すぎるイメージしかなかったけど、なぜか彼の自殺という事実が、これまで聞いた名の知れた人の死の中でも、ダイレクトに私の中の何かを抉っているような感覚がある。きっと熱心なファンの方の情動は、私なんかの比ではないのだろうけど、曲を聴くたびに、どうしてもその自死という言葉の虚しさがじわじわ、心地よいリズムに押されてこちらに届いてしまう。(その度に、彼の死すらもストーリーの一部として消費しているようで申し訳ない気持ちになるのだけど)

 

彼がどんな声をしていたのかとか、どんな風に寝起きして、どんな食べ物が好きだとか、スマホをいじる指先も、笑い方も、あくびの仕方も、好きな人と一緒にいるときの表情も、何1つ本当に知らない(当たり前)なんだけど、どうしてこんなに、違う国で生きていたこの人が存在しないことが胸にくるのだろう。自分でも訳が分からないのだけど、どうしても曲を聴くと目元にティッシュが必要になってしまう。

 

 

先日、長い休職を貰っていた会社を退職する旨、上司に連絡をした。

上司は、快活でパワフル、まさに強い女性。私が職場を逃げ出したときに色々相談にのってもらって、沢山守ってくれた人。

 

どんな反応が返ってくるか不安にしていた中で、彼女から返事がきた。

母とレストランで食事中だったので、そっとメールを開いて読んだ。パッと読んで、さらっと母に報告するつもりで目を通しけれど、最後の一文でもう耐えられなかった。

 

「なんだかむしょうにあなたと話しがしたくなりました」

 

絡まっていた心の隙間をすり抜けて、彼女がすっと目の前にきてくれたような気がした。

メールには、実は最近彼女自身も大病をしたこと、これまでの生活のスピードを変える必要が出てきたこと、今の社会のスピード、その目まぐるしさについて書かれていた。

私がメールに書いていたパニック症状への思いやりがあった。ゆっくり歩くこと、景色を見ること、そういうスピードで、生きること。

たった2年かそこらしか仕事をしていない私は、あっけなくその“私には速すぎる”スピードに流されて、おかしくなっていっちゃったけど、あのまま進んでいたらもっと取り返しがつかなくなっていたなと今ならはっきり言える。たった2年での出来事でも、この療養の3年間は楽な時間ではなかったから。

 

仕事内容も、できるだけ自然とか生き物とかに関わるものをやりたいと思っていたし、生まれてからの性分だから自然とそうしちゃうのだけど、以前、仕事帰りの深夜に自転車を引いて帰宅していたら、横断歩道の真ん中、道の分離帯で小さい黒い影が動いているのを見つけたことがあった。

深夜だし誰もいないし、車も来ないので近づいて見てみるとその正体は「オケラ」。

 

♪ぼくらはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから かなしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)
ミミズだって オケラだって
アメンボだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ

 

やなせ たかしさん作詞、いずみ たく作曲の「手のひらを太陽に」でお馴染みの、あの「オケラ」。小さい頃に図鑑で見て知っていたけど、本物を見たのは初めてで、実は心底興奮していた。紙に印刷されていない、生きて動いているこの虫に、生まれて初めて出会えたんだから。

早速捕まえてよく見てみようと思ったけど、肝心な時に袋がなかったので直ぐさま目の前の自宅まで取りに行き、超速で戻ってきた。街灯の下だったので、幸いまだそこに居てくれた。

(知っているとはいえ)触ったことのない虫を素手で触る度胸は小学生を上がる時に置いてきてしまったので、ビニール袋でそっと捕えて自宅へ持ち帰る。

改めて室内で観察して、ビロードに覆われた茶褐色の体が光を鈍く反射していて、やっぱりモグラみたいな印象が強かった。

 

収斂進化(しゅうれんしんか)」と言って、別のグループであっても似たような生態や生息環境をもつ生物は、同じような体の器官や機能をもつことが知られていて、この「オケラ」と「モグラ」は正にその例なのだそうだ。

土中を潜り進むための、「オケラ」のシャベルのような前足と「モグラ」の手、土や泥の付着を減らすための「オケラ」短い体毛と「モグラ」の毛皮。

それぞれが全く別の系統を辿った末に、現在、それぞれが似た進化の形に行き着いたということらしい。

 

自宅アパートのすぐ近くには田んぼがあり、そこから街灯の光に寄せられて飛んできたのだろう。翌日は直接、自分のてのひらから田んぼの畦に放した。茶色の体はすぐに湿った土に同化して見えなくなってしまったが、あのオケラが残していったてのひらを押し返した前足の感触と、短い体毛が見せた鈍い光は、図鑑には載らない私だけの記憶として不思議なほどはっきりと印象に残っている。

 

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色々教えてくれたオケラ

 

 

 

これは自身のストーリーとして作りすぎているのかもしれないけれど、今思うと、あの時狂い初めていた私を引き止めてくれたのは、やっぱり足元に生きている虫たちだったのかもしれないと、上司からのメールを読み返しながらぼんやり思う。

 

小学生の頃に、ほんの15分ほどの通学路をその倍以上の時間を掛けて、虫を探しながら毎日帰っていた。雨の日は、コンクリの外壁を這う大きなカタツムリを見つけては駆け寄って、そのしっとりした歩みを傘をさしたまま随分長いこと見つめていた。終いには捕まえたカタツムリを傘に幾つもたけて帰ったこともあった。夏にはセミの抜け殻を集めながら登校したり、朝見つけたコガネムシが気になって体育の授業中に一瞬学校を抜け出したこともある。待ってくれていたようにその場に留まっていたその輝く虫を見た時の胸の高鳴りは今でも思い出せる。暴れもせずじっとしている虫をそっとポケットに入れて、急いで学校に戻った。先生やクラスの皆にバレていないか、ポケットの虫は私が走っても無事でいるのか、腿に微かに触れる感触にどきどきしながら校庭まで走っていった。忍ばせたコガネムシのことが気にかかって、その後の授業をちゃんと受けたのかどうか覚えていないのだけれど。笑

 

そんなゆったりした私は、やはり中学生に上がってもすぐには学生のスピードに慣れず、母親によれば1年生の頃は暫く気落ちしていた時期が続いたらしい。自覚は全くなかったのだけど。高校生時代も同じで、忙しく騒がしく大変だけど楽しく、学生生活を送っていた。

 

考えてみれば、大学時代から少しずつ昔の頃の自分を思い出してきた気がする。都心のキャンパスではないので、幸い自然の中を通学するなかで虫たちがよく目についた。就活が始まって、押しつぶされそうになって、一度、課題も提出せずに講義をすっぽかしたことがある。「社会」では、どう考えても自分は無価値な気がして、就職戦争に挑む前に勝手に自滅気味になっていた。講義が行われている講義棟にも、構内でも過ごす気になれず、結局レポートで追い詰められないとなかなか足を運ばなかった図書館に向かった。

 

大して本を読まないくせに、書庫は好きだった。書物の匂いと、冷えた空気と、低い天井と、ずらっと並んだ色もサイズもばらばらな本の背表紙。必要以上に広くない空間は明るくて飾り気のない大教室よりも余程安心できた。今まさに欠席した講義は進んでるんだろうなと想像して、心底居心地が悪いキャンパス内でも、この場所だけは課題とか就活とか講師とか真面目な友達からの視線とかから、上手く自分を隠してくれている気がしていた。(そんな訳はないが)書庫の行き止まりに置かれているパイプ椅子に溶けかかって、それでも休講したことの罪悪感に駆られながら終礼のチャイムを待っていた。

 

チャイムが鳴った。この後の別の講義は出ないとと思いながら、結局この時間に一冊も手に取らなかった書庫を出ようと、数歩進んだ先の棚に手を置いたとき、ちらっと青いものが視界に入った。

 

カミキリムシだった。

 

なんでここでカミキリムシ?と私も思った。この真っ青な虫は図鑑で見たことがある。「ルリボシカミキリ」だ。視線を動かすと本のタイトルは『ルリボシカミキリの青』。そこにいたのは本物の虫ではない。背表紙に印刷され、美く鎮座したルリボシカミキリだった。

 

その本だけが薄暗い書棚の中で光って見えた、というのは別に詩的な表現でも何でもない。視界には数多の本があった筈なのに、本当にこの本しか目に入らなかったのだ。著者は、福岡伸一さん。分子生物学者。素敵な装丁を味わうより先に、この本に感じる期待のような“何か”を早く捕まえたくて、「プロローグ」を開くと夢中で文字を追い始めた。

 

 (続く)